図解不動産業シリーズ
「不動産業の歴史入門」
蒲池紀生著
住宅新報社刊
定価1785円(本体1700円)
22 三井初期の不動産業務は家産管理
三井は、その源流が呉服店(三井越後屋呉服店=三越)という商業資本であったことなどから資金を固定させず、できるだけ速く回転させることを基本方針としていました。
それで、前記の2つの洋風建築(自らの店舗=ハウスと銀行)は別として、山林、鉱山、不動産一般などに投資して資金を長期固定させることは"商人の本スジ"にはずれるという考え方があったのです。
しかし、明治時代の進展とともに、こうした考え方を固執できないような事情にもなってきました。明治中期になると、政府は産業開発などに関して財閥への依存度を強め、三井も鉱山(三井鉱山)、山林、不動産に投資せざるを得なくなり、また、三井の内部でも、こうした資産の運用に対する関心や意欲が高まってきました。
三井は、その営む各事業の統合的運営を図るため、1909(明治42)年、三井鉱山合名を三井合名に改組し、鉱山部門は三井合名鉱山部としました。そして、三井合名は三井の各事業をコントロールし、三井銀行や三井物産(いずれも合名会社)の株の持株会社となり、そのほか、"三井家の家産管理"の仕事も担当しました。
当時の三井家(本家以下11家ありました)の家産のうちの不動産の主なものには、三井銀行の兜町の土地、三越・鉱山・物産の本拠の駿河町の土地、三井家の墓所、三井家に牛乳を供給する牧場、同草花を供給する農園・温室などがありました。
このほか、神田の須田町・神保町、三田の四国町などで住宅の建っている土地(金融の担保流れで三井家のものとなったもの)、岐阜県の山林などもありました。
23 住友の飯田開発 ― 別子銅山の新居浜
友の不動産事業としては、明治以前の18世紀初頭以降の貸家経営があり、大坂(1868=明治元年までは大坂と書きました)・京都・江戸・長崎に多くの家作をもち、住友本家の家貸方が各所の家守(管理人)を統括していました。しかし、これらの家作は江戸時代末期にすべて処分したとのことです。
やはり明治以前の大規模な不動産事業としては別子銅山(四国・新居浜)の飯田開発事業がありました(都市開発ではありませんが、広義の"不動産開発"と考えることにします)。
住友家は、1691(元禄4)年の別子銅山の採鉱開始以来、幕府からその経営を委託され、これを自家の「萬世不朽の財本」として、住友財閥の基礎を築いたのでした。
この銅山では毎年1万2000石(1石=約180リットル)ほどの鉱夫の飯米が必要で、うち8300石は幕府払い下げがありましたが、不足分の手当てに苦労が多く、飯田開発で自給体制を確立することになりました。
1851(嘉永4)年、銅山支配人の会澤卯兵衛さんは新居浜の荒地約50 haを買い入れて開墾しました。この新田は「卯兵衛開」と呼ばれました。次代の支配人の清水惣右衛門さんも海浜に飯田を開き、これは「惣開」と呼ばれました。
その後の支配人たちも機会あるごとに新居浜地区で田畑などを買い入れ、1894(明治27)年には、新居浜地区の住友の飯田は総計約580haに達していました。
前記の「惣開」には、1884(明治17)年から、洋式の製錬所の設置が進められ、さらに機械や化学などの大型工場が建設されました(住友化学・新居浜工場)。

