「不動産業の歴史入門」15 蒲池紀生

図解不動産業シリーズ
「不動産業の歴史入門」 
蒲池紀生著
住宅新報社刊
定価1785円(本体1700円)

 

 1 田園都市の発想 ― 関東でも郊外の開発

関西地区では明治末に「私鉄の沿線=郊外開発」が始まっていましたが(前記)、大正期に入ると関東地区でも「私鉄(または私鉄の母体企業)の郊外開発」がみられました。その代表的事例の一つ「田園調布の建設」を見てみましょう。

 1918(大正7)年、東京府下荏原郡(当時)の調布で、畑弥右衛門さんという人が地元の地主さんたちの間を回り「あんた方に所有地の一部を提供してもらい、ここに"東京都心に通勤する人たちの住宅地"をこしらえる。

そして電車の路線をひいて、都心への距離を時間的に短縮した街をつくる。そうすればこの一帯の地価が大幅に上がってみんなたいへんな得になる」と説いていたそうです。

この話を、すでに80歳で経済界を引退していた渋沢栄一翁(明治・大正経済界の巨頭)が聞いて自ら乗り出し、同年9月、田園都市会社("街づくり"・土地会社)を設立しました。

 その設立趣意書には、"人間生活と自然の調和"が次のように強調されていました。
 「......紅塵万丈なる帝都の巷に棲息して生計・衛生・風紀上の各方面よりの圧迫を蒙りつつある中流階級の人士を空気清浄なる郊外の域に移して以て健康を保全し、且つ諸般の設備を整えて生活上の便利を得せしめんとするにあり。......」

資本金は500万円、発足後、"街づくり"のための土地買収を始め、1922(大正11)年までに調布・玉川・碑衾・平塚・馬込・池上などで合計約48万坪(約158万平方m)の土地を買収しました。買収価格は1坪=3・3平方m当たり平均5円強でした。

 これらの開発地の一つとして「田園調布」という"歴史的な住宅地"が誕生したのです。


2 "街ぐるみ公園に"の理念を掲げて 

渋沢栄一翁の子息・渋沢秀雄さんは田園都市に入社し、社命で欧米諸国を歴訪し、"新しい街づくり"の視察・研究にあたりました。その視察は1919(大正8)年8月から翌1920年5月までの長期にわたるもので、その間、各国の「ガーデン・シティ(田園都市)」や「プラネット・シティ(衛星都市)」などを訪ね、「田園調布」その他の開発の方向・方策を研究しました。

 当時、欧米諸国ではエベネザー・ハワードさん(英)の「田園都市」提案が注目されていました。ハワードさんは1898(明治31)年に書籍 "Garden City of Tomorrow"(『明日の田園都市』)を刊行、「都市と農村が一体化した田園都市こそ人間の理想的な生活環境」と主張し、自ら"街づくり会社"を興し、レッチウォースなどの新都市を建設していました。

 秀雄さんは多くの実地研究のうえで「駅を中心に環状道路と放射道路を組み合わせ、居住者が最短距離で駅へ行ける街」という基本構想を提案し、また"街ぐるみ公園に"の理念を掲げて「緑地・公園・道路」の面積を全体の18%とすることにしました。

こうした基本構想などの要件を満たした「田園調布のプラン」を建築設計家の矢野金太郎さんがとりまとめました。開発工事が進捗し、1923(大正12)年には「田園調布」住宅地約24万坪(約80万平方m)の売り出しが始められました。

 ところで、これらの開発の初期ごろまでわが国では「田園都市」という言葉がなじみ薄く、田園都市会社の社員が郵便局の窓口で「タゾノトイチさん」と呼ばれ、社員の人はすぐには「自分のこと」だと気がつかなかったそうです。

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